この伝絵は「ゑしんの里記念館」開館にあたり、恵信尼の生涯を分かりやすく綴った伝記絵を新たに制作したものです。本来伝絵は、えことば絵詞と絵を交互に配する絵巻物形式の伝記絵ですが、ここでは影像をつなげ、絵詞を解説として各場面の下に配する形式として展示をしております。この伝絵の制作にあたっては、松野純孝氏(上越教育大学元学長)の監修を仰ぎ、千葉乗隆氏(龍谷大学元学長)の協力を得て、京都の大和絵師・藤野正観氏の筆によって完成したものです。
 
1.監修者の松野孝純先生と
恵信尼伝絵の内容・構成を検討
   
2.PCを使って各場面構成の元絵を作成
   
3.原寸大の下絵を作成(藤野正観氏)
   
4.本紙に彩色を行い完成(藤野正観氏)
 

一、京都の恵信尼
二、越後の親鸞・恵信尼
三、関東移住と恵信尼夢告
四、関東での布教活動
五、板倉の恵信尼
六、手紙を綴る恵信尼

 一、京都の恵信尼

  恵信尼の出自には諸説あるが、ここでは京都の貴 族「三善為教(為則)」の娘とした。場面は二〇代 の恵信尼(画面中央)が九条家など上級公家の屋敷 に女房として仕えている様子を描いている。
  九条兼実は浄土宗の開祖法然に帰依し、親交も厚かった。おそらく法然の弟子の僧侶たちが屋敷に訪 ねて来ることもあったであろう。

 

 二、越後の親鸞・恵信尼

  親鸞は承元元年(一二〇七)二月、専修念仏停止により越後国府に遠流となった。ここで問題となるのは親鸞と恵信尼の婚姻時期である。「親鸞は流罪となる前、既に京都で恵信尼と結婚していた」とする京都説と、「越後に流罪となった後、その地の豪族、三善家の娘、恵信尼と結婚した」とする越後説である。しかし何れにせよ、恵信尼には越後に所領があり、流罪地、越後での生活はそれほど経済的に困窮することはなかったかとも考えられる。
  画面は越後国府での親鸞と恵信尼の暮らしを描いている。恵信尼は生まれたばかりの息子、信蓮房と世話をする乳母をやさしく見つめ、戸外では娘(後の小黒女房)が遊んでいる。親鸞は別室で経論釈等を繙いている。親鸞にとってこの時期は法然の教えを総点検し、師亡き後の親鸞独自の考えを深める、沈潜の時代といえよう。

 

 三、関東移住と恵信尼夢告

  建保二年(一二一四)、親鸞四二歳、恵信尼三三歳で、一家は関東に移住する。この移住の理由もまた諸説あるが、おそらく親鸞の流罪勅免後、翌年に法然が没し、京都に戻る理由がなくなったこと、関東に法然の根本の弟子がいたこと、なかでも鎌倉時代に入り関東が新たなフロンティアとして注目されたことなどが上げられる。
  画面は関東への旅の様子と、恵信尼夢告の二つの場面が描かれている。恵信尼は常陸の下妻にある坂井の郷という所で夢を見た。夢の中で恵信尼は、色も形もない、ただ光ばかりの仏と、もう一体の仏を見る。光ばかりの仏は勢至菩薩の化身、法然上人であり、もう一体は観音菩薩の化身、あなたの夫、善信の御房(親鸞)であると告げられ、うち驚いて夢から覚めた。恵信尼は法然上人のことのみを親鸞に話し、親鸞を観音菩薩と告げられたことは決して人には言わず、深く胸の内に刻んでいた。
  この夢の話は「恵信尼文書」第三通に記されているが、手紙は親鸞の訃報に接して末娘の覚信尼に送ったもので、恵信尼が生涯、親鸞を観音菩薩の化身とみて仕えてきたことを告白している。恵信尼の、親鸞に対する心情を物語る、重要なエピソードといえよう。

 

 四、関東での布教活動

  画面は親鸞の関東での布教活動を描いている。門人は農民や下級武士、漁民や猟師等で、その多くは二〇代前後の血気盛んな若者が中心であったと考えられる。説法には恵信尼も加わり、よく親鸞の教えを体得したものと思われる。
  関東での二〇年余に及ぶ生活は「稲田草庵」「小島草庵」「大山草庵」など転々と所を移し、その中で子を産み育て、また門人に接した恵信尼にとっては、苦労の多いものであった。しかし、そうした中で親鸞の布教活動で、門人が増えて行くことは、恵信尼にとっての喜びであったろう。

 

 五、板倉の恵信尼

  嘉禎元年(一二三五)頃、親鸞一家は京都に戻る。その後、恵信尼は京都の親鸞の元を離れ、越後の板倉に生活の場を移す。板倉周辺には恵信尼の子である小黒女房、信蓮房、益方入道らが住んでいたことから、板倉への転居は主に生活面での経済的理由が考えられる。
  「恵信尼文書」第七通から第十通には、覚信尼に譲った下人の動静や、恵信尼の板倉での暮らしの様子なども綴られている。その中で、大病を患ったことや、うち続く凶作、飢餓、下人たちが逃げてしまったこと、熱病で亡くなった下人たちのことなど、様々な生活苦を語っている。
  画面には、豪雨による河川の氾濫をくい止めようとする農民たちや、収穫前に水浸しとなった田畑が描かれ、家の中では、針仕事などをして働く恵信尼が描かれている。
  「恵信尼文書」からは、子や孫たちを死なせまいと必死に暮らしを支える恵信尼の姿がうかがえ、当時八〇歳を過ぎた恵信尼の強靭なバイタリティーを感じさせる。

 

 六、手紙を綴る恵信尼

「恵信尼文書」第三通から第六通は夫親鸞の訃報に接し、娘の覚信尼に送った書状類で、親鸞の比叡山での修行時代や、法然に帰依する経緯、関東での布教活動や宗教上の最も重要と思われるエピソードなど、これまで知られることのなかった親鸞と恵信尼の出来事が的確に綴られている。
  画面は、その中の第五通と第六通に記された寛喜三年の出来事を、恵信尼が書き綴っている様子を描いている。寛喜三年四月四日、親鸞は風邪ぎみになり、夕方から看病人をも寄せつけず、ただ音もせずして臥していた。八日目の明け方、苦しそうにしながら「まはさてあらん」といって元気になった。親鸞はうなされ寝込んでいるあいだ「大無量寿経」をずっと読んでいたと語り、思いおこせば一七、八年前にも浄土三部経千部読誦を試み、念仏のほかに何もいらないと思い返して、それを止めたが、この期に及んでまた読誦するとは、自力の執心はなかなか抜け切らないものだとしみじみ語った。恵信尼はこの出来事を、親鸞が長い苦闘のすえ自力の執心を捨て、他力に転入した証として、娘の覚信尼に伝えた。
  このような稀有の記録を綴っていた恵信尼は、その意味で親鸞、その人と思想の最もよき理解者であったと思われる。

 

 

 

 

 

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